世界はヒロシマを覚えているか(5)「被爆者の証言がなければ、原爆ドームはただのハリボテに過ぎない。」


記事番号:4730 (1998年08月25日 09時22分59秒)


Kさん。       

#4698
はじめまして、Kといいます。
少々乱暴なのを承知でまず感想から申し上げさせていただくなら”自虐ってるな”という感じです。


「自虐」という一語で、具体的に表現したいものは何でしょうか。


まず、冒頭の栗原貞子氏の詩についてですが、なぜ貴方とB氏が南京事件と原爆投下についての事実関係について争っているときに聞いたこともないような女性の個人的な感情を表わした詩などがでてくるのかさっぱりわかりません。


栗原貞子氏は1913年広島生まれ。45年に広島で被爆しました。


米占領軍は、ヒロシマの悲惨を隠蔽するため、原爆に関する表現を弾圧し、原爆は戦争被害を最小限にとどめ平和をもたらした、という認識を広めようとしました。栗原氏は占領軍の検閲に抗して、いち早く46年3月に「中国文化」原子爆弾特集号を編集・発行しました。そこに掲載された彼女の詩が、原爆文学の記念碑的作品である「生ましめんかな」です。(/は引用者)


こわれたビルディングの地下室の夜だった。/原子爆弾の負傷者たちは/ローソク一本ない暗い地下室を/うずめて、いっぱいだった。/生まぐさい血の匂い、死臭。/汗くさい人いきれ、うめきごえ/その中から不思議な声がきこえて来た。/「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。/この地獄の底のような地下室で/今、若い女が産気づいているのだ。/マッチ一本ないくらがりで/どうしたらいいのだろう/人々は自分の痛みを忘れて気づかった。/と、「私が産婆です、私が生ませましょう」/と言ったのは/さっきまでうめいていた重傷者だ。/かくてくらがりの地獄の底で/新しい生命は生まれた。/かくてあかつきを待たず産婆は/血まみれのまま死んだ。/生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも

69年には栗原氏ら四人の詩人の手によってアンソロジーヒロシマ』が刊行されました。原爆の悲惨と平和の創造を象徴するカタカナの「ヒロシマ」は、この時に初めて使われました。栗原氏の存在なくしては、広島の被爆体験の継承と反核反戦の声は、ずっと貧弱なものになっていたに違いありません。(以上の記述は『反核天皇被爆者』栗原貞子三一書房、1975、『日本の原爆文学』13「詩歌」ほるぷ出版、1983、によりました)


(Kさん)
広島といえば南京がでてくるというのは一部の人がそう信じているだけで、あまり普遍性はない。


現在私はシカゴに住んでます。よく自己紹介をするときに日本の広島からきましたっていうけど今までその反応として南京を持ち出す奴(中国人を含めて)なんて一人もいませんでしたよ。


パールハーバーは二、三度あったかな。


人間が一生の間に直接見聞きできることは、たかが知れています。ご自分の体験を絶対化することはおやめになったほうがよいでしょう。


栗原貞子氏は、著書『核・天皇被爆者』のなかで、次のようなエピソードを紹介しています。


数年前、キリスト教婦人団体がアメリカで世界婦人会議を行い、会を終えた後、ソルスベリーの町で懇親会をひらいたところ、「これからアメリカの英雄を紹介する」とのあいさつがあった後、爆弾を抱えた格好の兵士が現われ、「彼は広島に原爆を投下したアメリカの英雄です」と説明された。


日本代表のY夫人は突然のことで黙ってうつむいているより仕方がなかったという。するとアメリカの婦人が「彼を英雄とするのは間違っています。私はアメリカ国民として広島長崎の人たちにゆるしを乞いたいと思います」といったところ、中国や韓国を始め東南アジアの国ぐにの婦人たちは「アメリカの原爆は私たちを日本の軍国主義の侵略から解放してくれました。日本人は自国の軍国主義の非道を反省するべきです。何がヒロシマですか」といったので、Y夫人はいたたまれない思いをしたと語った。

また、丸木位里・俊の描いた大作「南京大虐殺の図」には、次のような説明が付されています。


1970年に原爆の図を持ってアメリカに渡りました。ロサンゼルスの近くのカリフォルニア州立工科大学に行ったときのことです。


「例えば中国人の画家が、日本が行った南京大虐殺という絵を描いて日本へ持って行ったら、あなたはどうなさいます。それと同じことです。アメリカが行った、ひろしま、ながさきの大量虐殺の絵を日本人画家が描いてアメリカへ持ってきています。わたしたちがその展覧会をしています。」と、ある大学教授はいいました。


ちょうどその頃はベトナム爆撃が盛んに行われていました。ソンミの虐殺もその頃でした。戦争反対の原爆の図をアメリカで展覧することは大変なことでありました。


わたしたちはアメリカで南京大虐殺のことを聞こうとは夢にも思いませんでした。

帰国後、丸木夫妻は南京大虐殺の資料をあつめはじめ、75年に作品を完成させました。ところが作品を発表すると、さまざまな嫌がらせや脅迫の手紙・電話が来るようになったそうです。


スミソニアンの原爆展も、当初の計画では、南京大虐殺の展示も予定されていたそうですし、三年前に韓国で開かれた原爆展も、市民の反応は冷たいものだったようです。


このような反応は、アメリカや中国の「プロパガンダ」などという薄っぺらいものに根拠するものではありません。日本ではどうあれ、<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>という反応は、世界的な「常識」なのです。

(Kさん)
なぜ、広島、長崎への原爆投下と南京事件が比較できるんですか? どちらも非戦闘員に対する大量殺りくという点で同じだというならば東京大阪などの大都市への焼夷弾爆撃もそのカテゴリーに入りますよ。貴方がそうやって南京事件と原爆投下を直接結び付けようとする態度こそ終戦直後のアメリカそして、現在の中国のプロパガンダの意図するところだと思います。


原爆は、ある日突然落ちてきたのではありません。


日本はそれまで15年にわたって侵略戦争を続け、アジアの民を虐殺してきたのです。


アジア各地を歩いていると、日本軍による戦争被害の話をたくさん聞きます。そしてアジアの民を解放したのはアメリカの原爆であるという「神話」が広く信じられていることを感じます。彼らにとって、南京は日本の軍国主義の象徴であり、ヒロシマはそこからの解放の象徴です。


もちろん原爆投下の主要目的は、「アジアを解放する」ことではなく、戦後をにらんだアメリカの世界戦略の一環だったわけであり、この「神話」は完全に誤りです。私は、アメリカが参戦しなくても、アジアは自力で日本を打ち負かし、解放を勝ち取ったであろうと考えています。


しかし、原爆の神話が史実に基づいて誤りであっても、被害者側から見れば、それなりの説得力を持ってしまうのは、彼らの実体験がそれを支えているからです。


また、日本の一般市民を大量虐殺したという事実にも関わらず、アメリカ国民の多くがあの戦争を安心して「良い戦争」と呼ぶことができるのも、南京に象徴される日本軍の破壊と殺戮が道徳的根拠を与えてしまっているからです。


東京大空襲も、当然、アメリカによる一般市民の虐殺です。それはそれで糾弾されなければなりません。しかし、それと同時に日本軍の重慶爆撃も糾弾しなければ、その声はなんら道徳的な力を持つことはないでしょう。


日本政府が重慶爆撃に対して何の責任も取らないでいることと、東京大空襲の責任者カーチス・ルメイに勲章を与えたことは、表裏一体の行為です。


自分たちの過ちを覆い隠そうとするから、他人の過ちを追及することができなくなっているのです。


日本が無謀で残虐な侵略行為によってアジアの民を虐殺したことの重大性を認めるとき、原爆の神話は崩れ去るでしょう。その時アメリカは、原爆投下の道徳的根拠を失い、広島・長崎市民の大量虐殺に対する責任をとらざるをえなくなるでしょう。


(Kさん)
まあ仮に原爆投下と南京事件が比較可能だとしましょう。


あなたは原爆について、写真や証言についてしか取り上げていませんが、現存する物理的証拠については、言及されてません。あの原爆ドームは捏造されたものでしょうか。原爆資料館にある石に焼けた人の影は核分裂による爆発の閃光以外の現象でも起こりうることなのでしょうか?


また、アメリカは戦意高揚のためだけに当時のお金で二十一億ドルもの予算を費やして嘘をいったのでしょうか。私は広島県出身で大学を卒業するまでは毎年八月六日八時十五分には黙祷を捧げていた人間です。しかし、それでも私は、貴方やヒステリーシナ系米国人女性と違ってこれだけ悲惨な目にあった被害者の証言を信用できないのかといったゴリ押しはしません。


あなたが原爆についての物理的証拠について否定的もしくは懐疑的になるのは結構ですが、その主張を裏付けるだけの反証を提示してからいってください。少なくとも南京大虐殺否定派は、その作業を怠っていません。


まず、あの原爆ドームがハリボテだということを証明するところから始められたらいかがでしょう。


何度も説明していますが、私はヒロシマ原爆を確信しています。南京大虐殺が幻だと強弁するのは、ヒロシマが幻だというのと同じレベルの、荒唐無稽な主張だということを言いたいのです。


しかし、私のヒロシマへの確信は、「物理的証拠」に根拠するものではありません。


原爆ドームは、単なる「物理的証拠」ではありません。戦争を憎む人々の意志、原爆の悲惨を伝えようとする人々の声(=証言)の集積なのです。


ドームは幾たびも取り壊しの危機に瀕してきました。特に右翼や元戦犯たちが取り壊しを主張してきました。日本政府はドームの保存に無関心でしたし、広島市の財政では、とうてい保存費用の捻出は不可能でした。ドームがいまもあるのは、多くの人がドーム保存に立ち上がり、金を出し合い、補修工事を行った結果です。


「原爆は威力として知られたか、人間悲惨として知られたか。人間悲惨としては知られず、威力として知られて核兵器の増産が行われている」


1964年の原水禁国民会議で、中国新聞論説委員・金井利博氏はこう述べました。


原爆の本質は、その物理的エネルギーにあるのではありません。無差別に人を焼き尽くし、生活を奪い、生き残った者にも辛苦の生を与える、悲惨の極みこそが、原爆なのです。


原爆ドームが「物理的証拠」に堕落するとき、それは核の物理的威力を伝えるだけのハリボテに過ぎなくなることでしょう。


私は#4582で、南京大虐殺を疑ったり、元慰安婦の強制性を疑う人々をまねて、「証言もたくさんありますが、偽証罪の適用されない状況での証言がどれだけ信用できるのか、もっと検証が必要です。」と書きました


しかしよくよく考えれば、いかなる公文書や物理的証拠も、人間の悲惨を自ら語ることはありません。それらの「証拠」をいかにたくさん集めようが、そこには人々が何を感じ、何を思ったかは、書かれていません。それらの「証拠」が意味を持ちうるのは、その背後に証言者の姿があるからです。


ヒロシマで何があったか、南京で何があったか、人間が何をして、何を感じ、何を考えたかを伝えるのは、人間だけなのですから。


私がヒロシマの悲惨の真実性を確信する根拠は、したがって、原爆ドームという物理的証拠にあるのではなく、例えば次のような被爆者・目撃者の証言にこそあるのです。


ピカッと、爆弾が破裂したときに、だいだい色の光線をじかにあびた赤ちゃんは、おかあさんのうでに、だかれて死んでいました。それに気がつかないで、赤ちゃんをだいて、何時間も火の中を逃げてきた、おかあさんもいました。


「やれのう、なんべん思いだしても、かわいそうにのう。勤労奉仕にひっぱりだされた女の子が、目玉がとびだして、だらりとさがり、目がみえんようになって、橋のたもとのがんぎのところで、かさなりあって死んでおった。……」


正田篠枝作「ちゃんちゃこばあちゃん」より)


だとすれば、次のような証言はどのような意味を持つのでしょうか。

地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両目が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。7歳くらいの男の子のもあった。銃剣の傷が4つ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。


痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから2日後に死んだという。


ジョン・ラーベ著『南京の真実講談社、より)

この二つの証言を分け隔てるものは、何でしょうか。


勤労奉仕に引っぱり出されて、原爆に殺された広島の女の子と、日本兵の銃剣で突き殺された南京の7歳の男の子の、二つの悲惨を並べて、上は信用できるが、下は信用できない、とする根拠を、私は持ち合わせていません。


ところで、「ヒステリー」というのは、女性に対する最大限の侮蔑の言葉です。
また、「シナ」というのは、日中戦争を「わからずやの後進国をこらしめるための戦争」として正当化するために広められた政治的な差別語です。


この二つの言葉を同時に使っているあなたは、中国で女性をレイプし、良民を虐殺した日本兵と同じメンタリティーをそのまま受け継いでいることが、よく分かります。そして、それら被害者の訴えを、事実関係も知らずに「ヒステリー」として切り捨てていることも。


(Kさん)
#4699
これは付け足しですが八月六日が広島の原爆記念日だということを日本人なら誰でも知っているというのは、間違いです。


この間日本人女性三人と酒を飲みにいきまして、そのうちの一人の女性が八月五日が誕生日だということがわかると、別のある女性が”それって、終戦記念日かなんかじゃない”といってました。ちなみに彼女は某有名大学で修士号をとってます。


批判するときは、人の文章をよく読んでからにして下さい。
8月6日が何の日か知らない日本人がいる、ということは幾度かニュースにもなり、私もその事実を知っています。私は、「日本人なら誰でも知っている」などというナイーブな表現はしていません。


確かに、ヒロシマの風化が年々進んでいることは、深刻な問題です。


広島出身で毎年8月6日に黙とうを欠かさなかったというあなたが、栗原貞子氏の名を知らないということは、「平和教育」の無力さの象徴でしょうか。あるいはヒロシマの風化がさらに進んでいることのあらわれでしょうか。



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世界はヒロシマを覚えているか(1)「ヒロシマ原爆も捏造だった?」
世界はヒロシマを覚えているか(2)「ますますあやしい? ヒロシマ原爆。」
世界はヒロシマを覚えているか(3)「8月6日と12月13日。」
世界はヒロシマを覚えているか(4)「ヒロシマの根拠、南京の根拠。」

世界はヒロシマを覚えているか(4)「ヒロシマの根拠、南京の根拠。

記事番号:4717 (1998年08月19日 10時59分36秒)
世界はヒロシマを覚えているか(4)「ヒロシマの根拠、南京の根拠。」


日出ずる国の若者さん。

アメリカのスミソニアン博物館というところで原爆展というのが開かれましたよね、その時原爆投下作戦に携わった退役軍人の人たちが原爆投下後の惨状を写した写真、つまりおどろおどろしくて地獄のような光景の写真ですね、そのような写真を展示するな!と言ったらしいです。


私は彼らの気持ちは「国の為に戦った俺達の行為が、一見して蛮行と取られてしまうような展示はやめてくれ!俺達はあくまで国の為にやったんだから・・・」と私は思いました。この事柄はあくまで原爆を落したという事実を認めている上にたって行われた抗議であると思うのです。


ですから当事者がこのような認識をもって抗議をしている以上、無かったと考えるのは無理があるように思えるのです。


南京攻略に参加した日本軍の元兵士も、虐殺の事実を認めていますよ。例えば、次のような本が出ています。


『私記 南京虐殺』(正、続)曽根一夫、彩流社1984
『一召集兵の体験した南京大虐殺―わが南京プラトーン東史郎、青木書店、1987
『南京戦史資料集』(I、II)南京戦史編集委員会編、偕行社、1989、93
南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』小野賢二・藤原彰本多勝一編、大月書店、1996


東史郎氏の『一召集兵の体験した…』は当時の従軍日記をもとにしたものですが、同書に登場する同じ連隊の元兵士から名誉棄損で訴えられました。東京地裁は元兵士に関係する部分について「記述に客観的証拠がない」として名誉棄損を認めたものの、(南京攻略時に)「多数の捕虜や非戦闘員が殺されたことはおおむね否定しがたい事実」と述べています。現在は東京高裁で係争中です。


それにしても、60年前に書かれた日記はそれ自体もはや歴史的資料と言うべきであって、その個別的記述について現在の基準で「客観的証拠」を求めること自体が、歴史というものを知らないがゆえの誤りだと、私は思います。


『南京戦史史料集』を出版した偕行社は、旧日本陸軍の将校たちによる親睦機関であり、月刊誌『偕行』を発行しています。同書は『偕行』に寄せられた証言を集めたものです。同誌の編集部は当初、南京大虐殺を否定する意図から証言を募集したようですが、連載が進むにつれて、逆に虐殺の事実を認める証言が多数寄せられ、虐殺の事実は動かしがたいものになりました。編集部は南京での大量虐殺の事実を認め、「この膨大な数字を前にして、暗然たらざるを得ない。……弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深くわびるしかない。まことに相すまぬ」と謝罪しました。ただし、虐殺者数の面でかなり身びいきな縮小化を図っている点で問題は残ります。

さらに原爆投下が行われた時のアメリカ側が撮ったフィルムを以前NHKで流していました、そしてアメリカが「そのフィルムは日本が捏造したものだ」という抗議をしたという話もききません、だからあの放送はやらせではないと思い原爆が投下されたのは本当だったんだと思いました。


南京虐殺の惨状をとらえたフィルムも存在します。当時現地に滞在していた米聖公会のジョン・マギー牧師が撮影したもので、南京周辺の侵攻時の模様や、病院に収容された犠牲者の様子などが収録されています。


このフィルムの原本は91年にアメリカで発見され、それをもとに毎日放送が「フィルムは見ていた−−検証・南京大虐殺」というテレビ番組を制作・放映しました。さらにその番組は「第3次家永教科書訴訟」で証拠として採用され、92年に東京高裁の法廷でビデオ上映されました。


95年にはアメリカで、このフィルムに元日本軍兵士や被害者の証言、家永三郎、吉見義明、渡部昇一など百人近いインタビューを加えたドキュメンタリー映画天皇の名の下に」が製作されましたが、NHKは「刺激的すぎる」と放映を断ったそうです。
                 (http://www.bekkoame.or.jp/~ymasaki/in.htm


あともし原爆がなかったのなら死者がでないと思います。ケロイドになる人もいないと思います、原爆ドーム張りぼてにならなかったと思います。そして多くの人たちが原爆症にだってならなかったと思います。リトル・ボーイやファットマンなんていう爆弾の存在を知ることもなかったと思うし、長浦天主堂が吹っ飛ぶこともなかったと思いました。


南京虐殺によっても、多数の死者が出ました。いまだに当時の傷痕を体に残し、後遺症を抱えている人もたくさんいます。幸存者(幸いに虐殺を免れた人)も、まだ1000人以上が生きており、事件を証言しています。


もしあなたも機会があったら、ぜひ南京大虐殺紀念館を訪れてみてください。紀念館には多数の写真や生存者・目撃者1700人の証言に加え、紀念館建設中に掘り出された多数の人骨も----同館は虐殺現場の一つである江東門に建てられました----展示してあります。


中国政府は従来、帝国主義者と人民は別、日本人民も侵略戦争の被害者である、というタテマエをとっており、「中日人民の友好」のために日本の侵略の歴史にはつとめて触れないようにしてきました。


ところが82年の教科書問題や相次ぐ政治家の妄言で、日本に南京大虐殺を否定する人々がいることに中国側は驚きました。85年に紀念館が作られたのは、歴史をないがしろにしようとする者に対する警告です。


そういえば、87年に韓国の独立記念館が作られたのも、教科書問題がきっかけでした。まことに皮肉なことですが、日本政府が侵略の歴史を隠蔽しようとしたおかげで、私たちは学びの場をいくつか持つことができたわけです(本当は日本がきちんと侵略歴史資料館を作るべきですが)。

それと出所のあきらかになっている写真の数々はつっこむ余地のない原爆があったといわざるを得ない証拠であると思います。


南京大虐殺に関しても、出所の明らかになっている、突っ込む余地のない写真は存在するのですが……。長江河畔を埋めたおびただしい死体の写真も、「あれは正規の戦闘で死んだ兵士だ」という具合に否定していけば、いくらでも疑うことは可能でしょう。


しかしそんな真贋論争以前に、写真という技術にはもともと決定的な限界があるのだということを認識しておくべきでしょう。それを示す具体的な事実を一つあげておきます。


原爆投下当日の広島の爆心地の模様を伝える写真は、実は一枚もないそうです。当日撮影された写真は、中国新聞のカメラマン松重美人氏が撮った5枚だけ。爆心地に最も近いものでも2.2キロ離れた御幸橋の派出所付近のものです。松重氏は、その時の心情をこう記しています。

派出所の前から橋の歩道には、猛火の中を逃げてきた火傷を負った人たちが群れをなしていた。頭の髪は焼け縮れ、背中も腕も足も、顔もやけて黒焦げ。(中略)応急手当てを施す臨時救護所は、まさに地獄絵図である。


「ここを写真にしよう」。カメラに手をかけたがシャッターが切れない。断末魔の生死をさまよう、大勢の人の目が私を見つめている。「水をください、助けてください」。呻きの声をしぼって哀願する、動く気力もない母親にすがりつく幼子。目をあけないわが子を横抱きに、助けをもとめ泣き叫ぶ母親。シャッターを切るには、あまりにも残酷。写せない!


橋の中央あたりまで帰ったが、「この大惨事に一枚も撮らなかった」ではすまされない職務の重みに、帰りかけた足が止まった。(中略)目前に見る地獄の光景も写真にすることを求められる報道班の肩書がある。被災者には申しわけないが撮ろう。派出所前へ引き返し、詫びる思いでシャッターを切った。(中略)あまりの惨状に、都心での写真は撮れなかった。


     ----『戦争と庶民』第三巻「空襲・ヒロシマ・敗戦」(朝日新聞社)より----


そういえば、スーダンで飢え死にしかかった子供をハゲワシが狙っている現場を撮影してピューリッツァー賞をとったカメラマンが、「写真を撮る間になぜ助けなかったのか」という非難を浴びて、自殺したこともありました。


写真を撮るという行為は、それほどにメンタルな、暴力的な行為なのです。なぜならそれは常に「見る者--見られる者」「持てる者--持たざる者」という権力関係を前提にしているからです。


一枚の写真が人の心を動かすことは、確かにあります。しかし私は、何でもかんでも写真に撮ればいいとは思いません。またそれが歴史の真実を伝える決定的証拠だとも考えていません。


ヒロシマの現場写真を見て、「本当はこんなものではなかった。これはウソだ」という被爆者もいます。確かにそうでしょう。写真からは、人の焼ける臭いや、炎の熱さ、火傷の痛みは伝わってこないのですから。写真では本当の人間の悲惨を伝えることは不可能なのです。


「写真がないから根拠がない」といって歴史的事実を疑う人は、写真が、撮る者の意志のあらわれ(=表現行為)であることを知らない人なのでしょうし、死にゆく人を前にしてシャッターを切ることに何も感じない神経の持ち主なのかも知れません。


次に核兵器が使われた時は、もはや一枚の写真も残らない可能性もありますが、その時にもあなたは、「写真がないから」といってその事実を疑うのでしょうか。


こうして見ていくと、おそらく日出ずる国の若者さんが南京大虐殺を疑う根拠は、次の一点に尽きると思われます。

今のところ私は南京で国家の方針として虐殺が行われたハズが無いという人達の存在を知っているのですがのですが、日本に対する原爆投下の事実がなかったという人を知りません。
このことがらが原爆投下の事実を否定するのは無理があることなんだな、と私に思わせる原因の一つです。


「虐殺が行われたハズが無い」というセリフは、映画「プライド」の東條英機を思い出させますが……。それはともかく、そういう人の存在を理由に南京大虐殺を疑うのは、非科学的な態度です。あなたは、疑う人がいれば疑うし、疑う人がいなければ信じるのでしょうか。


結局、私にはあなたを納得させることは不可能なようですね。なぜなら、私には「ハズがない」という人々をこの世から消し去ることはできませんから。また、仮にそれが可能だったとして、「誰も疑う人がいないから」という非合理的な理由であなたが南京大虐殺を信じても、何の意味もないからです。


一つ気になったので確認します。あなたが「国家の方針として」という語をわざわざ挿入したのは、国家の方針によらない虐殺はあった、という意味でしょうか。

私が生粋の日本人といったのは単に私が混血とかじゃない混じりっけなしの日本人であるよ、という意味です。ちゃんと父母の故郷に帰って過去帳を検分し、四代まえまでに外国人の血が入ってなかったことを確認したので、それに基づき私は自分のことを純粋な日本民族であるという意味において「生粋」と表現したのでした。


あなたがいう「日本人」とは、「日本民族」のことですか。
日本にはアイヌウィルタ帰化した朝鮮人なども、日本国籍を持って住んでいます。ウチナーンチュ(沖縄人)の中には、自分たちは日本民族ではないと自覚している人もたくさんいます。その人たちのことを、日出ずる国の若者さんは何と呼んでいますか。「外国人」ですか。


過去帳というシロモノを私は見たことがないのですが、それには民族名も書かれているのでしょうか。古来から日本列島には朝鮮半島や大陸から多くの人が渡ってきたことは歴史的事実ですが、4代より前のご先祖にはそうした人が含まれている可能性はないのでしょうか。4代続けて日本に生まれ育ったことが「生粋の日本人」の条件なら、いま日本で生まれ、育ちつつある在日朝鮮人の子どもたちもみな「生粋の日本人」ということになりますが、そういうことでしょうか。


「生粋の日本人でよかった、私は日本人として生まれたことを誇りに思う」とタイトルに書かれていますが、何がよかったのでしょう。「生粋の日本人」でなければ何か悪いことでもあるのでしょうか。

しかし米津さんに対する私の質問は別にどうというものではありません。ただ単に米津さんが日本人か、はたまた在日かどうかを知りたかっただけの話です。深い意味はありません。


あなたは常日頃から、私以外の人にも「日本人か在日か」と質問しているのでしょうか。


そんなことはないでしょう? このボードにあなたは何度か書き込みをしていますが、私以外の人にそんなことを訪ねたことは一度もありませんよね。なぜ私が「日本人か、はたまた在日かどうか」を知りたいのですか。


世の中には、発すること自体が差別である質問があるのです。
はっきり理由を教えていただけますか。


バックナンバー
世界はヒロシマを覚えているか(1)「ヒロシマ原爆も捏造だった?」
世界はヒロシマを覚えているか(2)「ますますあやしい? ヒロシマ原爆。」
世界はヒロシマを覚えているか(3)「8月6日と12月13日。」

世界はヒロシマを覚えているか(3)「8月6日と12月13日。」

※まえおき:直接こちらに来られた方は、まずヒロシマに原爆は落ちたのか――歴史修正主義の行き着く先をお読みになってください。なお、「世界はヒロシマを覚えているか」という連載の共通タイトルは、再掲するに当たって付けたものです。


記事番号:4638 (1998年08月06日 10時53分47秒)
世界はヒロシマを覚えているか(3)「8月6日と12月13日。」

 〈ヒロシマ〉というとき
 〈あぁヒロシマ〉と
 やさしくこたえてくれるだろうか
 〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー
 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺
 〈ヒロシマ〉といえば女や子供を
 壕のなかにとじこめ
 ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
 〈ヒロシマ〉といえば
 血と炎のこだまが返って来るのだ


    ----栗原貞子ヒロシマというとき」より----


今日は8月6日。


この日が広島の原爆記念日であることを知らない日本人は少ないでしょう。毎年この日になると、テレビや新聞で、広島の記念式典の模様をはじめ、多くの報道が流されます。今日の朝日新聞にも、社説や「天声人語」、見開き2ページを使ったシンポジウムなど、朝夕刊あわせて大小24本の記事が掲載されていました。特に今年は、インドとパキスタンの核実験の記憶が新しいので、ヒロシマはより強調されているかもしれません。


では、12月13日は何の日でしょうか。


この問に答えられる日本人は何人いるでしょうか。でも中国人の多くは、この日が何の日かをよく知っています。


1937年のこの日に、日本軍は南京を占領しました。61年前のこの日、多くの日本人たちが「祝・南京陥落」ののぼりを立てて、提灯行列に繰り出しました。新聞も大々的に報じて祝勝気分を盛り上げました。もちろん大虐殺については報道管制がしかれ、日本人の多くは東京裁判でその事実が明かされるまで、自分たちの夫や息子や父親たちが、無辜の市民や投降兵を数えきれないほど虐殺したことを知りませんでした。


去年は南京大虐殺から60年目にあたる年でした。去年の12月13日前後、朝日新聞に掲載された南京大虐殺関連の記事は、わずか5本です。どれも、さほど大きな記事ではありません。行数で比べたら、広島原爆の記事量とは相当な差になるでしょう。


85年以降の「天声人語」を調べると、広島原爆関連が44回に対して、南京大虐殺関連はわずか3回です。それも、南京虐殺を直接論じたものではなく、永野茂門法相の「南京虐殺はでっちあげ」発言に関するものです。


朝日新聞はまだしも南京大虐殺が事実であるという立場をとっており、それゆえに「マボロシ派」からさまざまな攻撃にさらされていますが、それでもこの程度の扱いです。日本のメディア全体における、ヒロシマと南京の情報量の差は、いかほどになるでしょうか。


メディアは事実を報じることによって現実に意味付けをしますが、事実を無視することによっても、やはり現実に意味を付与します。


       ***    ***    ***    ***


Bさんが思ったよりも早く論争からオリてしまったので、書き残したことを述べておきます。


ヒロシマを疑う人は、まずいないでしょう。いまの日本で、ヒロシマが幻だと真顔で主張する人がいれば、その人の常識が疑われ、社会生活にも支障を来すことでしょう。ヒロシマは疑いようのない事実なのですから、それは当然のことです。


でも、その根拠を問い詰めていけば、大抵の人はBさんと同じ水準なのです。直接にヒロシマを経験した人は少数であり、一次資料にあたることのできる人も、多くはありません。ただ、毎年のようにこの時期には新聞・テレビが大きく報じており、さまざまな行事が行われるなど、日本の現実がヒロシマがあったことを前提として動いているから、疑う余地が生じないだけのことです。


では、同じように疑いようのない事実である南京大虐殺について、なぜ日本でだけ、その存在を疑う人が絶えないのでしょうか。なぜ、ヒロシマについては問題にされないようなデマや枝葉末節が、南京については「虚構の証拠」とされ、ヒロシマについては絶対にメディアに載らないような「事実誤認」が、堂々と雑誌に登場するのでしょうか。


石川さんが「原爆豚パティー」の話に反論されていますが(もちろん私も原爆の殺傷能力の巨大さを微塵も疑ってはいません。念のため)、南京マボロシ説のなかには、この「原爆豚」に類するトンデモ話が平気で登場し、それが信じられてしまうのは、どうしたことでしょうか。


被害実態の調査も困難のなかですすめられており、犠牲者30万人は特に過大な数字ではないのですが、マボロシ派はそれを決して認めようとはしません。


それはメディア状況に見るように、南京の世界史的重大性がいまだに日本の常識になっていないためでしょう。大江健三郎ヒロシマのことはよく記憶していても、南京のことは忘れてしまっていたことを、はからずも金芝河との対談で露呈してしまったのです(日出ずる国の若者さんは私の意図を誤読していたようですが)。


日本で「南京は幻だ」と言っても、その人の常識を疑われたり、社会的に不便を被ることはありません。日本の現実は、南京が事実であることを前提としていないのでしょう。


このスレッドのきっかけになった、いぎさんの心配は、現実になってしまいましたね。中川昭一農水相は、辞任もせずに大臣のイスに留まるようです。これからも、新内閣ができるたびに、同じことが起こることでしょう。


日本で南京が完全に幻になる日も、近いかもしれません。日本は、国際連盟を脱退した頃のような、孤立への道を歩むことになるのでしょうか。それでもなお、世界はヒロシマを覚えているでしょうか。


すでに#4629でもいくつか例を挙げましたが、日本政府・文部省は、ヒロシマの悲惨さを極力隠そうとしています。教科書の広島原爆に関する記載は、「悲惨すぎる」という理由で、80年代に半減したそうです。また昭和天皇裕仁は、75年訪米後の記者会見で、「原爆は気の毒だがやむをえなかった」と無責任極まる発言をしています。


日本でも、パキスタンのように「ヒロシマにならないために核を持つべきだ」という言説が世論化されることは十分にありうるのではないでしょうか。


冒頭に引用した詩は、次の言葉で締めくくられています。

 〈ヒロシマ〉といえば
 〈ああヒロシマ〉と
 やさしいこたえがかえって来るためには
 わたしたちは
 わたしたちの汚れた手を
 きよめねばならない


      ***    ***    ***    ***


この間のヒロシマ=南京論争で参考にした書物をあげておきます。


南京大虐殺にいたる日本軍内部の葛藤や、事件の全体像、その国際的影響などを、コンパクトに知るためには、『南京事件』(笠原十九司岩波新書)がいいでしょう。


南京大虐殺の証明』(洞富雄、朝日新聞社)は、86年刊と少々古いのですが、南京マボロシ説を撃破するためにはこの一冊で十分です。Bさんが信じているらしい田中正明マボロシ派がいかに事実をねじまげ、無視しているかよく分かりますし、どのように論破しようが、こうした連中には蛙の面にションベンだということも教えてくれます。


「原爆豚パティー」の話は、『戦争と正義----エノラ・ゲイ展論争から』(エンゲルハート、リネンソール、朝日選書)によりました。アメリカでヒロシマの被害の実像がどのようにマボロシ化されているかを知ることができます。本土侵攻によるアメリカ兵の犠牲は原爆投下を正当化するために過大に見積もられているということです。


昭和天皇裕仁がなぜアメリカに感謝したのか、なぜ日本政府はアメリカに弱腰なのか、その真の理由を知りたければ、『安保条約の成立----吉田外交と天皇外交』(豊下楢彦岩波新書) をお勧めします。戦後の象徴天皇制などまやかしだったことが分かり、「洗脳」から抜け出せますよ。この本を読んで、裕仁だけはやはり生かしておくべきではなかったと再確認しました。


バックナンバー
世界はヒロシマを覚えているか(1)「ヒロシマ原爆も捏造だった?」
世界はヒロシマを覚えているか(2)「ますますあやしい? ヒロシマ原爆。」

世界はヒロシマを覚えているか(2)「ますますあやしい? ヒロシマ

【追記】なんだか話が見えていない人が多いようなので、本論の意図について前もって解説。

南京大虐殺まぼろし説のように都合のいい話を集め、一部の事実と歴史的背景を無視すれば、ヒロシマまぼろしにすることだって可能なんだ、という見本です。これで広島原爆がなかったことにできる、と筆者が思っているわけではありません。

本論を読んで「何を荒唐無稽な」とか「何と不謹慎な」と思われた方は、南京まぼろし説も同様に「荒唐無稽」で「不謹慎」であることに思いを馳せていただけたら、幸いです。【筆者より】


※まえおき:直接こちらに来られた方は、まずヒロシマに原爆は落ちたのか――歴史修正主義の行き着く先をお読みになってください。なお、「世界はヒロシマを覚えているか」という連載の共通タイトルは、再掲するに当たって付けたものです。


記事番号:4629 (1998年08月05日 01時58分58秒)
世界はヒロシマを覚えているか(2)「ますますあやしい? ヒロシマ原爆。」

Bさん。

#4587

>第一の根拠「犠牲者の数の不思議」

当時、広島には20万人以上の人が住んでいました。
そして、一発の原爆が20万人を殺すのに十分な能力を持つことは実験記録によって明らかです。


広島の人口が20万人以上だったことは、何によって確認されるのでしょうか。広島は軍都です。本土への空襲が日常化しているなかで、多くの人がすでに疎開していたとは考えられないでしょうか。


また、人体実験をしたわけでもないのに、原爆が20万人の殺傷能力を持つということが、どのようにして明らかになったのですか。


「原爆豚パティー」の話をご存じですか。46年にアメリカがビキニで核実験をしたときに、子豚のパティーは実験用動物として被爆しました。ところが実験終了後、パティー放射能に汚染された環礁で泳いでいるのが見つかったのです。パティーはその後、メリーランド州の海軍医学研究所で大切に育てられて600ポンドの豚に成長し、動物園で生涯を終えたそうです。この話はアメリカの雑誌『コリアー』51年8月11日号に掲載されました。


子豚一頭殺せない兵器で、20万人もの人を殺せるのでしょうか。

南京に残っていた人は30万人未満だったことが外国のジャーナリストによって報道されておりますし、


あなたは外国のジャーナリストの報道なら信じるのでしょうか。では「原爆豚」の話は?


私の知識では、事件直前の南京の人口は、安全区内だけで20万人、総人口は60〜70万人です。さらに上海から攻め上る日本軍を逃れた難民25〜40万人が南京に流れ込んでいたといいます。


仮にBさんの主張が本当だとしても、それは虐殺数が30万人未満であることを意味しているだけであって、虐殺がなかったことの根拠にはなりません。

そもそも当時の日本軍に数日間のうちに30万人も殺す能力はありませんでした。


東京裁判の判決によれば、日本軍は南京を占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で20万人以上を殺害した、とされています(当時の中国側の主張は43万人)。
ここでは大虐殺の真偽を問題にしているので、その数字を検証には立ち入りませんが、東京裁判における南京大虐殺の定義は、

・南京占領後の6週間に
・南京とその周辺で

行われた虐殺となっています(実際のところ、日本軍による南京市民の殺戮は、すでに宣戦布告前の37年8月15日、海軍機による渡洋爆撃----戦時国際法違反!----から始まっているのですが)。


Bさんが南京大虐殺を、南京市内での数日間に限る理由をお教えいただければと思います。


また、日本兵が仮に5万人いたとして、一人が一日に一人ずつ殺せば、6日で30万人になります。兵力が1万人だったとしても、一人当たり5人ですみます。そして実際に南京攻略にかかわった日本軍は19万人です。


子豚も確実に殺せない欠陥爆弾で20万人を殺すより、ずっと確実性は高いと思われますが。

>第二の根拠「証拠のあやふやさ」

広島原爆の写真および証言が捏造であるという根拠は何ですか?具体的に教えてください。


写真や映像がいくらでも偽造可能なことはご存じでしょう。旧ソ連で、粛正された人物が写真からきれいに削除されていたことは、よく知られています。アメリカには、アポロの月着陸がアリゾナ砂漠で撮影された捏造だと主張する人もいます。


日本映画の特撮技術も、戦前にはすでに相当な水準に達していました。負け戦を大勝利に見せることなど、朝飯前だったのです。


捏造の確かな根拠はいまのところありませんが、だからといって、ヒロシマ原爆の写真と証言が真であると証明されたわけでもないはずです。ヒロシマ捏造を明らかにする研究が進んでないだけだとは、考えられませんか。


一つ重大な事実があります。80年代になって文部省は検定で、学校教科書からヒロシマ原爆被害の写真を削除しています。写真が本物なら、なぜ削除する必要があったのでしょうか。

南京虐殺の写真および証言が捏造であるという根拠はここにあります。


虐殺を否定するには、すべての写真と証言が虚偽であることを証明する必要があります。なぜなら、本物の写真が一枚、本物の証言が一つでもあれば、南京虐殺は本当にあったことになるからです。


南京大虐殺の証拠といわれる写真は何点あるのでしょうか。また、証言はいくつあるのでしょうか。すべてが虚偽だと証明しつくされたとおっしゃるなら、それぞれいくつあったか、教えていただけますか。


ところで、本物の写真が一枚もなかったとしても、虐殺がなかった証明にはならないのです。


フランス革命の写真は一枚もありませんし、関ケ原の合戦の写真ももちろんありません。しかし、フランス革命関ケ原の合戦は幻だったと主張すれば、その人は馬鹿扱いされるでしょう。


写真は人類の歴史の、ほんの最近になって登場した技術であり、歴史上の重大な事実のほとんどは、写真がありません。つまり写真があるかどうかと、歴史的事実があったかどうかは、直接関係がないのです。

>第三の根拠「日本政府の弱腰と被爆者無視」

当時は敗戦直前であり、日本政府に抗議を行う余裕はなかっただけでしょうし、


日本政府に原爆投下に抗議する余裕がなかったというなら、首都陥落で混乱の極みにあった中国側も、南京虐殺を詳しく調査して世界にアピールする余裕がなかったと考えることも可能ではありませんか。


ところで、敗戦直前で抗議する余裕もない状態の日本に、なぜアメリカはわざわざ原爆投下をする必要があるのですか。国際的非難の危険を冒してまで住民を虐殺する必然性がどこにあるのでしょうか。


一方、南京攻略当時の首相近衛文麿は「支那膺懲」をスローガンに掲げ、日本国民の中国侮蔑意識は高まっていました。上海派遣軍司令官松井石根参謀本部の決定に背いて独断で南京攻略を決めました。兵も20代後半から30代後半の後備役兵が中心で、規律が乱れ、若い将校には統率不能でした。彼らは南京さえ攻め落とせば戦争は終わり、帰郷できると信じて、補給もろくにないまま(現地調達を前提として)、南京攻略に突入していきました。南京大虐殺への条件は、アメリカの原爆投下よりも十分にあるように思われます。

敗戦直後は極東軍事裁判という名前の口封じが行われると共に日本国民に対する洗脳が行われただけでしょう。


誰が、誰に、どんな洗脳をしたのでしょうか。日本国民はそれほど愚かだったのでしょうか。もしかしてBさんは、いまはやりの「自虐派」というやつですか。


日本政府は「現在も」アメリカに正式に抗議していませんよ。


それどころか、1975年に訪米した昭和天皇裕仁は、「貴国がわが国再建のために温かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、感謝の言葉を申し述べる」と歓迎の晩さん会でスピーチしています。


対日空襲作戦を指揮した元米空軍元帥カーチス・ルメイは、トルーマン大統領の命を受けて広島への原爆投下を実行したと言われています。ところが驚くべきことに、日本政府は1964年にルメイ氏に対して勲1等旭日大綬章を贈っています。


ヒロシマで20万の国民が殺されたのが本当だとすれば、天皇と政府がなぜその加害者に感謝し、勲章を贈るのでしょうか。


ヒロシマ幻の根拠はまだまだあります。


原爆を描いて好評を博していたマンガ『はだしのゲン』(中沢 啓治、少年ジャンプ連載)は74年夏になぜか連載途中で打ちきりになり、1981年には文部省の教科書検定で、丸木位里丸木俊の『原爆の図』が削除されています。


洗脳ならば時間の経過と共に解けるものですが、これはどうしたことでしょう。


天皇も、政府も洗脳されていた(いる)のでしょうか。原水爆禁止運動に最も積極的だったのは、共産党系、社会党系の人々ですが、彼らは洗脳されていなかったのでしょうか。私は洗脳されているのでしょうか。Bさんは洗脳されていないのでしょうか。

>第四の根拠「国内報道もなく、国際社会も冷淡」

国内報道が小さかったのはパニックを恐れたからでしょうし、当時の広島には外国のジャーナリストはいなかったのですから報道がないのは当然でしょう。
当時の中国は日本人が悪逆非道であると国内外に宣伝することに熱心でしたし、南京には外国のジャーナリストが多数いました。それにもかかわらず国内報道もなく、国際社会も冷淡でした。


日本もアメリカ人が悪逆非道であると国内外に宣伝することに熱心でした。それでもパニックの方を恐れて原爆について報道しなかったと、Bさんは解釈するわけですね。ならば、首都南京の陥落という大敗北と市民の大量虐殺に際して、中国側も国民のパニックを恐れてそれに触れなかったと考えることもできるのではないですか。


もう一つ確認しますが、Bさんは、新聞に載っていれば南京大虐殺はあったと納得されるのでしょうか。


上の文によれば、Bさんは報道の多寡とヒロシマ原爆の真実性は関連がないとお考えのようです。同様に考えれば、報道がなかったとしても、南京大虐殺がなかったことの証明にはならないわけですよね。確かに、新聞には世の中のすべてのことが載っているわけではありませんから。


実は、中国国内でも海外でも、南京大虐殺は大きく報道されています。日本への輸入の過程で配布禁止処分になったものだけでもニューヨーク・タイムズ、ザ・タイムズ、マンチェスター・ガーディアン、シャンハイ・イブニング・ポスト&マーキュリー、工商晩報など27紙、31回にのぼります。


当時朝日新聞のニューヨーク特派員だった森恭三は、アメリカでの報道を翻訳して詳細に打電しましたが、一行も掲載されなかったそうです。敗戦後、森はその痛恨の思いを胸に朝日新聞の戦争責任を----不十分ながらも----自己批判した宣言文「国民と共に立たん」を執筆しました。(朝日が戦前のままだったら、自由主義史観を称する人々からも攻撃されないですんだかも知れませんね。いや、最近の朝日は、当時の姿勢に戻りつつあるようにも思えるのですが…)


       ***    ***    ***    ***


小山さん。

スイス政府を通じて(スウェーデンだったかな?)抗議したとおもいます。


どんな内容の抗議だったのでしょう。
それに、なぜ直接アメリカに抗議しないのでしょうか。ますますあやしくないですか。


       ***    ***    ***    ***


日出ずる国の若者さん。

#4599
そもそも米津さんは広島長崎の原爆投下があったと確信しているのにもかかわらず、それがなかったという根拠を説明しようとすること自体に無理があるのです。そのせいで混乱を引き起こしてしまっています。それはというと

1959年、キューバ革命勝利の年に来日したゲバラは、無名兵士の墓に詣でる予定をキャンセルしました。「日本の無名兵士とはアジアで数百万人を殺した兵士のことではないか。そんなところへ行くわけにはいかない」。そしてゲバラは、予定になかった広島へ向かいました。原爆資料館を1時間かけて見学したゲバラは、案内役の人にこう言ったそうです。「アメリカにこんな目に合わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」。ゲバラもあきれた日本政府の弱腰は何なのでしょう。やはり日本による真の虐殺の帳尻あわせにすぎないのでしょうか。

この文章は文脈上おかしいです、ゲバラの逸話を根拠に話を進めている以上、話者は原爆投下があったと確信しているはずです、実際米津さんは確信しているのです(笑)、さてさて米津さんはこの文で結果として原爆投下はあったという結論を導きだしてしまっています。ここでいう日本による真の虐殺の帳尻あわせというのは広島長崎原爆投下の事実でしょう?原爆はなかったという根拠にもとづき論を展開しているハズなのにね。それならばこの文章は根拠をあげた後の方にかくべきだったのではないでしょうか、色々とお忙しいので


私の投稿の主旨をよくご理解されていないようなので、説明します。


もちろん私はヒロシマ原爆があったことを確信しています。それと同じ強さで、南京大虐殺があったことも確信しています。


私は広島の原爆資料館を三度にわたって訪れたことがありますが、その度に「人間が人間に対してこんな酷いことができるものなのか」と、強い衝撃を受けました。


一昨年に初めて南京の大虐殺記念館を訪れたときも、ヒロシマで受けたのと同様な衝撃を受けるとともに、自分の足元が沈み込むような感覚を覚え、自分が日本人であることの意味を噛みしめざるをえませんでした。


私にとって南京大虐殺と広島への原爆投下という二つの事件は、切っても切り離せない、ひとつながりの歴史的出来事として、私の生き方を大きく支配してきました。


無名兵士の墓への墓参を拒否したゲバラも、ヒロシマを確信していたと同時に、南京も確信していたことは間違いありません。彼にとって、広島の非戦闘員を大量虐殺したアメリカへの怒りと、何百万人ものアジアの民を虐殺した日本への怒りは、同じものだったのです。


南京なくしてヒロシマはありえません。誤解のないように急いで付け加えれば、南京があったからヒロシマもしかたない、という意味ではありません。どちらもあってはならない出来事だったのです。


もしあなたの挙げた程度の根拠をもって、私が絶対的確信を持っている南京大虐殺が幻であることが証明されるなら、私のヒロシマへの絶対的確信も、やはり揺るがざるをえません。そして、ゲバラの怒りもヒロシマがあったことの根拠にはならなくなるのです。


南京大虐殺ヒロシマ原爆の帳尻あわせとして捏造されたという、あなたの論理が成り立つとするなら、ヒロシマ原爆は南京大虐殺に代表されるアジア人民虐殺の帳尻あわせとして、日本を被害国に見せかけるために捏造されたという論理もまた、成り立ちうるのではないか----それが私の言いたいことです。

それと食人についてのコメントですけれども、中国人は慣習として食人をしていたわけです、食べ物がなくて飢餓に苦しむ人がやむおえず人肉を食するのとはわけが違うでしょう、無理矢理日本人を残忍に仕立て挙げるのは良くないと思います、中国人の残虐性の多くは通州事件について調べてみるとよくわかります。その残虐性は到底日本人の考えに及ぶものではありません、異常ともいえる行為がそこで行われたのです。


一説によれば、世界中のあらゆる民族といってもいいほど、食人の慣習についての報告は多数あるそうです。しかし、そのほとんどは「私たちは食わないが、隣の村のやつらは食う」「私たちは食わないが、妖術師は食う」という類の、伝聞・伝承の形に限られ、資料批判にたえうる直接観察にもとづく報告は皆無に近いようです。(平凡社『大百科事典』「カニバリズム」の項参照)


私には中国人の知人が何人かいますが、彼らは人を食いません。中国にも数回行ったことがありますが、中国人が人を食っているところを見たことはありません。


一方、日本に首狩りの慣習があったことはよく知られた事実です。武士たちは、戦で自分の手柄をたてた証として、敵の首を切り落として持ちかえりました。その慣習は残虐ではないのでしょうか。


また、死刑は残虐な刑罰として、多くの国で廃止されていますが、日本はまだ死刑制度を存続させています。すると日本人は残虐な民族なのでしょうか。


ナチスユダヤ人を大量虐殺して、その死体から石けん*1や衣類をつくりました。では、ドイツ人は残虐なのでしょうか。


アメリカ人も、アメリカ原住民を大量に虐殺し、ベトナムでは住民を村ごと虐殺しましたが、アメリカ人も残虐なのでしょうか。


フランス人もフランス革命で自国民同士が殺し合いをしましたが、それはフランス人が残虐な国民だからでしょうか。


人を食うから残虐なのか、殺し方の問題なのか、数の問題なのか、他国民を殺すならよくて自国民だから残虐なのか……。何が異常で何が正常なのでしょう? 国別に残虐さを競いあうことに、どんな意味があるのでしょうか。


結局、もともと残虐な国民・民族などいないのです。この世には、残虐な行為が存在するだけです。南京大虐殺ヒロシマ原爆も、日本人やアメリカ人がもともと残虐な国民であるがゆえの行為ではなく、その背景にはさまざまな歴史的要因、判断の過ち、個人的欲望や現実への追従などが絡みあっています。


行為には必ず主体があります。誰が命令し、誰が実行したのか、責任は誰がどう負うべきか。それを正しく知り、責任者を裁き、後世に伝えていくことこそ、残虐な行為を再び繰り返さない唯一の道だと、私は考えています。


バックナンバー
世界はヒロシマを覚えているか(1)「ヒロシマ原爆も捏造だった?」

*1:最近の研究では、いわゆる「人間石鹸」が大量生産された事実はないそうである。だが、もちろんこれはホロコーストをはじめ、ナチスの蛮行がなかったことを意味しない。ホロコースト否定派は、こうしたわずかな「傷」を攻撃することで、ユダヤ人虐殺全体をマボロシ化しようとしている。ホロコースト否定派と「石鹸話」参照

世界はヒロシマを覚えているか(1)「ヒロシマ原爆も捏造だった?」

【追記】なんだか話が見えていない人が多いようなので、本論の意図について前もって解説。
南京大虐殺まぼろし説のように都合のいい話を集め、一部の事実と歴史的背景を無視すれば、ヒロシマまぼろしにすることだって可能なんだ、という見本です。これで広島原爆がなかったことにできる、と筆者が思っているわけではありません。
本論を読んで「何を荒唐無稽な」とか「何と不謹慎な」と思われた方は、南京まぼろし説も同様に「荒唐無稽」で「不謹慎」であることに思いを馳せていただけたら、幸いです。【筆者より】


※まえおき:直接こちらに来られた方は、まずヒロシマに原爆は落ちたのか――歴史修正主義の行き着く先をお読みになってください。なお、「世界はヒロシマを覚えているか」という連載の共通タイトルは、再掲するに当たって付けたものです。


記事番号:4582 (1998年07月30日 11時51分07秒)
世界はヒロシマを覚えているか(1)「ヒロシマ原爆も捏造だった?」


30万もの人が殺された南京大虐殺が実は虚構だった、という投稿を読んでいたら、では広島への原爆投下も幻だったのではないか、という気がして、心配になってきました。なぜなら、日出ずる国の若者さんの挙げる根拠が、ヒロシマについても当てはまってしまうからです。


第一の根拠「犠牲者の数の不思議」


広島原爆の犠牲者は20万人と言われています。いくら原爆とはいえ、たった一発の爆弾で、そんなにたくさんの人が殺せるのでしょうか。「75年間は草木も生えない」と言われていたはずなのに、今の広島にはビルが立ち並び、人口も大きく増えて、戦前よりずっと発展しています。


実際なかったから、ことさら大きな数字を挙げなければならなかったのでしょうか。アジア各地で何百万もの人を殺したのですから、日本は必死です。なんとかしてアメリカも同じような虐殺をしたように思わせる必要があったのではないでしょうか。


第二の根拠「証拠のあやふやさ」


広島の被害を伝える写真はたくさんありますが、写真ほどあてにならないものはありません。なにしろ南京の30万人の死者だってでっち上げられたというのですから。別の場所にあった死体を写して、適当なキャプションをつければ、国民がヒロシマは本当にあったことと受け取ってしまうのも無理はありません。


証言もたくさんありますが、偽証罪の適用されない状況での証言がどれだけ信用できるのか、もっと検証が必要です。


第三の根拠「日本政府の弱腰と被爆者無視」


アメリカが本当に虐殺を行ったとすれば、日本政府が黙っているはずはありません。東京裁判講和条約の交渉の席でアメリカの酷さを主張して国際世論に訴えれば、戦後の情勢も日本に有利に展開したはずです。


ところが日本政府は「一億総懴悔」を唱えるばかりで、アメリカに対して被害の補償どころか、正式に抗議したり、謝罪を求めたことすらありません。それどころか、被爆者援護法に象徴されるように、政府は被爆者不在の態度をとり続けていますし、同じ被害を受けたはずの朝鮮人など外国人被爆者にはもっと冷淡です。


これも、実はヒロシマがウソだからだと考えれば、納得がいきます。


1959年、キューバ革命勝利の年に来日したゲバラは、無名兵士の墓に詣でる予定をキャンセルしました。「日本の無名兵士とはアジアで数百万人を殺した兵士のことではないか。そんなところへ行くわけにはいかない」。そしてゲバラは、予定になかった広島へ向かいました。原爆資料館を1時間かけて見学したゲバラは、案内役の人にこう言ったそうです。「アメリカにこんな目に合わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」。


ゲバラもあきれた日本政府の弱腰は何なのでしょう。やはり日本による真の虐殺の帳尻あわせにすぎないのでしょうか。


第四の根拠「国内報道もなく、国際社会も冷淡」


民間人の大量虐殺が行われたのなら、これぞ鬼畜米英のしわざ、聖戦の大義は我にあり、とばかりに、大きく新聞に取り上げられてしかるべきです。ところが当時の日本の新聞は「広島に新型爆弾」と小さく書いただけで、その具体的な被害状況などはまったく伝えていません。実に不可解です。


人類を滅ぼすようなそんな恐ろしい爆弾なら、国際世論の声で当然に禁止されるはずなのに、大戦後も「平和のためだ」といって各国がこぞって開発・保有しています。「日本人の核アレルギー」などともっともらしいことを言いますが、民間の原水爆禁止運動が盛んになったのは、1954年のビキニでの水爆実験以降ですし、アメリカの核が日本に持ち込まれたり、独自の核を持つべきだという日本人すらいます。そもそも核が平和に役立つなら、ヒロシマで人が死ぬわけがありません。


まだまだ疑えばきりがありません。


蛮行は日本軍のお家芸ともいえます。日本軍の同胞に対する虐殺だったのかも知れません。ルソンやニューギニアで戦友の人肉を食った話や、沖縄戦で住民をスパイと疑って虐殺した事例を見てもそれが分かります。それと同様な行為が、アメリカに責任転嫁されたことも考えられます。


愚民政策の下、資料批判の能力さえ摘み取られている可哀想な子どもの使う教科書に、当然のようにヒロシマ原爆のことが載っているのは、特定の思想による偏向なのではないでしょうか。


       ***    ***    ***    ***


でも、やはりヒロシマは本当にありました。そして南京も。


理屈と膏薬はどこにでも貼り付く、といいます。


大戦直後、ブラジルの日系人の多くが、日本はアメリカに勝ったと信じていたことがありました。ヨーロッパでは、アウシュビッツはなかったと主張する人々もいます。


都合のいい話を集め、一部の事実と歴史的背景を無視すれば、ヒロシマをなかったことにすることだって可能です。近い将来、ヒロシマを自分の目で見た人たちはいなくなるのです。


大江健三郎金芝河との対談で、「世界はヒロシマを覚えているか」と問い掛けました。すると金芝河は即座に、「では日本は南京を覚えているか」と反問し、大江はそれにまともに答えることができませんでした。


私は冗談を言っているのではありません。


南京が幻になったとき、ヒロシマも幻になるでしょう。そして第二の南京、第二のヒロシマが生み出されることでしょう。いや、すでに朝鮮で、ベトナムで、イラクで、ユーゴスラビアで、第二、第三の南京、ヒロシマが、続々と生まれています。次はどこでしょうか。どうしたら止められるのでしょうか。

北京亭の箸袋----あるいは「中国」と「支那」の思想的意味。

記事番号:4827(1998年09月03日13時46分37秒)
北京亭の箸袋----あるいは「中国」と「支那」の思想的意味。


先日、仕事がひけた後、東京・神保町の内山書店を覗いてみました。

実は、「支那」(という言葉)についてまとまった形で論を展開している書物は意外に少ないのですね。呉智英の超歴史的・文脈無視の「支那」擁護論を除けば、私が知る限り、竹内好の『中国を知るために』(勁草書房)くらいです。10年ほど前に読んだのですが、引っ越しで本を整理した際に古本屋に売ってしまったために、手元にありません。そこで再入手しようとして内山に行ったのですが、なぜか竹内の著作は魯迅の翻訳を除くと、一冊も見あたらず、結局無駄足でした。

それにしても、中国書の専門店に竹内好がないというのは、ちょっとしたショックでした。最近の中国語学習者は、竹内好なぞ知らないのかしら。竹内のアジア主義は全否定されなければならないと私は考えていますが、彼の思想と行動を無視して日本人が中国を語ることはできないとも思うのですけど。

竹内好は1934年、武田泰淳らとともに「中国文学研究会」を結成しました。武力を背景に中国から「満州」を「独立」させ、国際連盟を脱退した当時の日本は、当然に「支那」全盛の時代でした。その中で竹内がわざわざ会の名に「中国」を冠したのは、やはりそれなりの意味合いと覚悟を込めてのことだったのでしょう。42年に同会は大東亜文学者大会への非協力を声明して、翌年に解散しています。

そんなわけで、「支那」についての竹内の考えを詳しく紹介できませんが、ごくかいつまんでいうと、畏怖と蔑視の間を激しく揺れ動く近代日本の中国観を克服し、中国と対等に向き合うには、「支那」でなく「中国」と呼ぶべきだ、ということが書かれていたと記憶しています(もし『中国を知るために』をお持ちの方がいたら、詳しく紹介していただけたらと思います)。

日本人の中国蔑視に警鐘を鳴らしつづけた竹内が「支那」を否定していることは、留意されるべきでしょう。同時に、「南京大虐殺はウソ」と言ってのけた石原慎太郎が、「私は支那を使い続ける」と述べたことを考え合わせると、「中国」と「支那」が持つ思想的意味合いは、一層はっきりします。

さて、残念ながら目的の本は入手できなかったものの、その後少し歩いて、北京亭で飯を食うことにしました。北京亭は知る人ぞ知る中国料理の老舗で、いつ行っても混んでいます。カウンター席の隅に腰掛け、炒飯と餃子、ちょっと奮発してビールの小瓶をとりました。

この店にわざわざ足を運んだのには実は訳があって----料理がおいしいのはもちろんですが----箸袋を入手するためでした。

北京亭の箸袋には、次のような文句が印刷されているのです。

世界中、どこの国の人も、自国に誇りをもちたいと思っています。大国でも小国でも同じです。
私たち中国人は、日本の人がわが国を「シナ」と呼ぶとき、耐えがたい抵抗を感じます。中国人が祖国を「シナ」と呼んだことはありません。同じ漢字を用いる日本の人が中国を「シナ」と呼ぶとき、私たちはどうしても日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起してしまうのです。両国人民の子子孫孫の友好のために、どうか「シナ」といわず「中国」と呼んで下さい。正式国名は「中華人民共和国」です。

 北京亭主人敬白


北京亭の主人は江頴禅さんといいます。70歳を超えたいまも、江さんは自ら中華ナベを握り、厨房に立っています。その日も江さんの元気なお姿を拝見しながら、冷えたビールで熱々の餃子を頬張ったのでした。

江さんは、朝日新聞の「論壇」(90年3月6日付)にも『「支那」の呼称は許されぬ』という一文を寄せたことがあります。下はその抜粋ですが、中国人が「支那」をどんな気持ちで受け止めているかがよく分かる文章です。

……中国人は古来、自分の国を「支那(シナ)」と称したことはない。古く「秦」に由来したと思われる「チャイナ」「シナ」が同根であることは学説的にも広く認められている。しかし決定的なことは「支那」という日本語は、最近百余年、日本がわが国を侮り、侵略し虐げた時期に、侮蔑(ぶべつ)の意味と響きを込めて勝手に使われ続けたという事実である。当時も、中国人は自国を「清」と言い、あるいは「中華民国」と呼んでいたのに、日本の軍閥と日本の人々は「支那」「支那人」と言ったのである。その侮蔑の痛みは、被害者の側であるわが国民にとっては、とても忘れることができず、また忘れてはならない記憶として残っている。


これと似たような語としては、「朝鮮」があります。「朝鮮」はもちろん差別語ではなく、現在も朝鮮民主主義共和国の正式名称にも使われています。しかしそれが日本の朝鮮侵略のなかで、侮蔑的語感をともなって使われたため、「チョーセン」という音は非常に差別的な意味合いを持たされてしまいました。ピョンヤンからの日本語放送を聞いていると、「朝鮮」だけは「ちょうせん」ではなく、「チョソン」と発音されています。

badlifeさんの#4754
> 「中国」という国家が未だ存在していなかった時点における「あの地域」の呼称としては「支那」のほうが適当であると申し上げているだけです。

何をとぼけたこと言ってるんでしょうか。奇兵さんはアイリス・チャン氏を指して「シナ系米国人」と呼んでいるんですよ。彼女はもちろん中華民国成立以降に生まれた現代人です。

中華民国が成立したのは1912年です。ところが日本政府は、それ以降も公式文書においても「中華民国」「中国」という国号を使わずに、ことさらに「支那」と呼びました。
その事実は、「支那」が「中国」という国号がなかった時代の中立的な地域名称ではなく、中国を正当な国家と認めたくないがゆえの政治的用語であることを示しています。

そこには、革命を成し遂げアジア最初の共和国となった中国を、警戒しつつも、軽んじ、無視しようとする日本政府の意図が反映されていたのでしょう。
もちろん、天皇支配の下でアジアの「盟主」を目指していた日本にとって、「中国」という国号が不愉快だったことは、いうまでもありません。それは日清戦争での勝利による奢りのあらわれに他なりません。

またこれは私の仮説ですが、多民族国家である中華民国を、漢族の伝統的領域である「シナ」に矮小化することによって、満州族モンゴル族などの少数民族を意識の上で分離し、中国侵略を正当化しようとする意図もあったのかも知れません。

ちなみに現代の日本で、「シナ」が公に使用されるケースは、地名としての「東シナ海」などと、言語名としての「シナ語」の二つです。

しかし、例えば東シナ海は、中国では「東海」と呼ばれ、漁業協定の日本文でもそう記述されています。ところが文部省は教科書検定で「東シナ海」に固執しています(文部省は官庁のなかで最も守旧的だという話を聞いたことがあります)。

言語学の領域では「シナ語」が使われていますが、その理由は次の3つに集約されると思われます。

・必然的に国境を超えざるをえない言語学において、「国」という語を含む「中国語」という名称はなじまない(同様な理由で「韓国語」も使わず、「朝鮮語」と呼んでいる)。
・中国は多民族・多言語国家であるため、漢族の民族語を「中国語」と呼ぶことは、学問的にあいまいで、不適切。
・中国において「中国語」を意味する「漢語」(hanyu、声調記号は省略)が日本語の「漢語」と同表記なので、混同しやすい。

しかし、私は地名も言語名も、何らかの別の言葉で置き換えすべきだと思いますし、それは可能でしょう。「東シナ海」は「東中国海」、「シナ語」は「チャイナ語」とでも呼べばいいし、もっといい知恵があるかもしれません。

江さんは前出の「論壇」の中で、こうも述べています。

科学は自然科学にせよ、社会科学にせよ、究極には人類すべての友愛、協力、幸福に奉仕すべきものであろう。差別や対立、憎悪を招くような用語は排除すべきである。「中国」は「世界の真ん中にある国」の意味で、固有名詞ではないといった主張もある。しかし中国人は、日本の人が自分の国を「日の本の国」と呼んでいることに対して、それは科学的でないから、たとえば「倭(わ)」と呼ぶべきだ、などとは言わない。日本をどう呼ぶかは、一義的に日本人の権利であり、他国はそれを尊重すべきなのである。日本を科学的、客観的に観察するのに、それは少しも妨げにならない。


いろいろ書きましたが、一言でいえば、相手の名を正しく呼ぶことは、人間関係の基本中の基本だということです。相手が「私は○○です」と名乗っているのに、「いや、私はあなたを××と呼ぶ。それは私の勝手だ」などと言う人がいたら、その人の常識が疑われるだけです。理屈をこねればこねるほど、腹に一物あると思われることでしょう。

  *

ところで、最近「支那そば」をメニューに掲げるラーメン屋が増えてきたことが、私には気がかりです。そこにはたいてい「昔懐かしい味」というキャッチ・コピーが添えられているのも、気になります。「昔」とはいつのことでしょうか。日中国交回復以前のことなのか、それとも「満州国」があった頃でしょうか。

ラーメンは最も大衆的な食べ物です。その名称に「支那」が増えているということは、それが大衆的支持を得つつあることの、一つのあらわれだと思われます。

文革の失敗、資本主義経済の導入、天安門事件で、多くの日本人が勝手に抱いていたある種の幻想が色あせ、再び日本人の中国イメージは、竹内の警告のように、「畏怖」(理想の社会主義国)から「蔑視」(日本の経済的成功を見習うべき後発国)へと振れつつあるのかも知れません。

ルールと差別----あるいは、人工衛星と金嬉老事件。

記事番号:5284 (1998年11月15日 20時55分29秒)
ルールと差別----あるいは、人工衛星金嬉老事件
http://www.han.org/oldboard/hanboard3/msg/5284.html



○○さんは朝鮮民主主義人民共和国人工衛星打ち上げについて、次のように述べています。


#4999
北朝鮮が打ち上げに関し事前通告しなかった事。
>宇宙ロケットの打ち上げについては、それを事前に国際機関に通告し、それを公表するのが
>国際的なルールになっています。それにより予想飛行経路上の航空機や船舶等に対して警告を
>発して、十分退避する時間を与えてから堂々と発射するのが国際社会の常識です。
>ルールは守るべきでしょう。私はそう思います。


まず宇宙条約(1967)についてみると、その第11条は宇宙探査に関する情報提供につい
て次のように定めています。


「条約の当事国は…その活動の性質、実施状況、場所および結果について、国際連合事務
総長並びに公衆および国際科学界に対し、実行可能な最大限度まで情報を提供することに
同意する」


つまり、「実行可能な最大限度まで」という曖昧模糊とした規定があるだけで、事前通告
については何も言っていません。私が思うに、宇宙条約が冷戦時代の産物であり、大国の
利害に配慮した結果だと思われます。米・ソ・中も、最初の人工衛星は秘密裏に打ち上げ、
成功した後に発表していますし、安全保障理事会の理事国でありながら一度も事前通告を
したことのない国もある、と共和国側は主張しています。


次に、国際民間航空条約(シカゴ条約)、国連海洋法条約は、それぞれ「民間航空機の航
行の安全について妥当な考慮を払うことを約束する」、(航行の自由、上空飛行の自由な
どは)「公海の自由を行使する他の国の利益…に妥当な考慮を払って行使されなければな
らない」と定めており、事前通告なしの衛星打ち上げは「妥当な考慮」が払われていない
がゆえに違法である、とする考え方は可能だと思われます。ただ、「妥当な考慮」の解釈
の余地は残るので、これだけを理由に共和国になんらかの法的制裁を加えることは難しい
のではないか、と思われます(共和国側はコースを外れた場合に備えて、自爆装置をつけ
てあったと主張しています)。


さらにシカゴ条約には軍事演習の事前通告に関する規定があるらしいのですが、シカゴ条
約の全文を入手できず、確認できませんでした。ただし今回のケースは軍事演習ではない
ので、これには該当しないかも知れません。


一方、これは条約ではありませんが、国際海事機関(IMO)の決議では、船舶航行の安
全に支障となるような軍事訓練などを行う場合、沿岸国への事前通報に努めることが定め
られています。世界の海域を16に分け、訓練などを行う国が各海域の担当国に連絡し、
担当国が「航行警報」を電波で発信することになっています。極東地域の担当国は日本に
なっており、窓口は海上保安庁です。


国際法違反とは言えないにしても、確かに今回の共和国の行動はこのルールを無視したも
のと言えましょう。


**


私も事前連絡はあってしかるべきだと思います。やはり連絡なしによその国の上空を飛び
こえたり、公海上にものを落とすのが危険なのは間違いありませんから。しかし、「ルー
ルは守るべきでしょう」というだけでは済まない問題があることも事実です。○○さん
だって、その言葉の空しさを、薄々感じていらっしゃるのではないでしょうか。


ルールを守れ----この絶対的に正しい呼びかけが、真っすぐに相手に伝わるためには、い
くつかのハードルを越えなければなりません。



第一に、日本政府は共和国を国家として認めていませんから、事前通告しようにも、その
窓口すらありません。


#4997で、私はこう書きました。
>共和国は50年も前から、日本の隣にあります。にも関わらず日本政府は、約2千万人が
>暮らす、しかもかつては「日本の一部」だった地域を統治する国家を、あたかも存在しな
>いかのように見なしてきました。在日朝鮮人の「朝鮮籍」が国籍ではなく単なる地域であ
>る、という政府の見解も、その一環です。
>共和国が国交のあるロシアと中国に事前通告し、自国を無視してきた日本に何も言わなか
>ったというのは、当たり前といえば当たり前。「存在しない国」からあいさつがないとい
>って怒るのは筋違いというものです。日本も衛星打ち上げにあたって、共和国に事前通告
>したことなどありません。


それに対して、○○さんは#4999でこう反論されました。
北朝鮮が存在しない国であると、日本国は考えていないのではないか、わたしはそう思います。
>でなければ、国交交渉などしないでしょう。


存在することは日本政府も当然知っています。そんなことはあたりまえです。私が言って
いるのは、「あたかも存在しないかのように見なして」いる、つまりシカトしている、と
いうことです。お互いに在外公館はありませんし、原則として公務員同士の接触も禁じら
れています。同じ海を共有し、本来なら協力して海の安全を守るべき日本の海上保安庁
共和国の海上警備組織は、相互の連絡も接触もまったくないのです。こうした不自然な状
態は、65年に結ばれた日韓条約において、朝鮮半島を代表する唯一の政権を大韓民国
定めたことで、固定化されました。


誰だって、自分をシカトする相手にあいさつなどしたくはありません。あいさつしように
も、日本側の扉は閉ざされています。共和国側が事前連絡をくれるかどうか、海上保安庁
だって分かっていたことでしょう。


共和国が本当に、いま日本で言われているような非常識な国----○○さんが#5217でいう
ところの「山賊、強盗の類」が統治する国であるなら、中国やロシアにわざわざ連絡した
のはなぜでしょう。一定の信頼関係があり、それを壊したくないからではないですか。事
実、共和国は世界の137カ国と信頼関係を築き、国交を結んでいます。


つまり、日本さえ考え方を変えれば、共和国と信頼関係をつくり、衛星打ち上げの相互連
絡の仕組みを作るくらいのことは可能なのです。



第二に、日本自身がルールをないがしろにし、人命を軽視しています。


今回、航行警報について調べていると、次のような事実が明らかになりました。
96年12月10日、演習で岩国基地を飛び立った米軍機が、那覇沖合に四百五十キロ爆
弾を投棄するという事故がありました。爆発せずに沈んだものの、現場はフェリーの航路
にあたり、衝撃を受ければ爆発の可能性もありました。しかしアメリカから連絡を受けた
外務省は、海上保安庁に対して「公表を見合わせてほしい」と要請したのです。結局、航
行警報が出されたのは、2日後の12日でした。


また、今年の8月21日、アメリカがアフガニスタンスーダンをミサイル攻撃した際、
パキスタンは自国の領空が侵犯されたことに抗議し、アメリカを非難する書簡を安保理
送りましたが、小渕首相はアメリカの国際法違反を責めるどころか、ミサイル攻撃に理解
を表明しました。


これでは日本政府の共和国への抗議が、ルールや人命の尊重に基づく、公正なものだとは
思われないでしょう。



第三に、今回の騒ぎの裏には、日本人の朝鮮蔑視があります。


まず、9月5日の朝日新聞の社説から、一部を引用します。


 #国際協調による関与こそ 北朝鮮政策


   この隣国と、いったいどうやって付き合っていったらいいのだろう。
   朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)による新型ミサイルの発射実験をきっかけに、
  多くの日本人が、あらためて考え込んでしまったに違いない。
   「我々の自主権に属する」「日本がせん越に口出しする性格の問題ではない」。北
  朝鮮当局の声明は、実験をそう論評した。日本政府の抗議や衆参両院の決議を無視し、
  あえて日本人の感情を逆なでするかのような姿勢である。(中略)
   北朝鮮人工衛星だったとしている。にわかには信じがたいが、かりにそうだとし
  ても、軍事的な危険性に変わりはない。
   日本がしなければならないことは、まずミサイルの開発、実験、配備、輸出に対す
  る抗議の意思を、あらゆる機会と場所をとらえて北朝鮮に伝えることだ。
   政府は、日朝国交正常化交渉の再開と、食糧支援、北朝鮮に対する軽水炉の提供事
  業への協力を、当面凍結することを決めた。平壌と名古屋の間のチャーター便の運航
  も認めないこととした。
   北朝鮮に日本の強い意思を示し、真剣な対応を迫るには、妥当な措置である。日本
  の安全や地域の平和を脅かすような行動が、経済的に割にあわない結果となることを、
  具体策で示すことが必要だ。


次は、中国の人工衛星打ち上げを論じた、70年4月27日の朝日の社説(抜粋)です。


 #中国の人工衛星成功に寄せて


   中国が人工衛星を軌道にのせ、世界で五番目の衛星打ち上げ国になった。(中略)
   七〇年代は、米ソ以外の多くの国が宇宙開発の分野に進出する年代である。当然各
  国ともそれぞれ独自の宇宙開発計画を持っているだろう。領土の広い中国では通信衛
  星のような実用衛星の役割を相当重視していることも推測にかたくない。今回の衛星
  は、そうした「宇宙技術開発の順調な始まり」と見るべきであり、中国が宇宙開発の
  ような科学技術の重要分野で多くの工業諸国に先がけて実績をあげたことには、敬意
  と祝意を表したい。(中略)
   たしかに、平和利用の技術は密接に軍事技術と結びついている。今回の打ち上げも、
  軍事的な能力に結び付けて考えないわけにいかないことは間違いない。(中略)
   われわれは、こうした側面からのとらえ方にはそれなりの根拠があることは認めな
  がらも、中国が今回の成果を平和利用分野での技術発展に生かしていくことを期待し
  ないわけにはいかない。(後略)
   

この頃の朝日新聞は、明確な親中国路線をとっていたので、これだけでは扱いが不公平な
のは当然だと思われるかも知れません。
しかし、例えば読売は「かなり以前から予想されていたことで、いまさらのように驚くこ
とはあるまい」「中国の核の脅威を必要以上に強調して、客観的には中国を敵視すること
になる“力による対応策”へ国民を誘導することは、日本の安全と繁栄にとって危険な道
であることを銘記しなければならない」(同年4月28日)、毎日も「冷静に考えれば…
中国が米ソの核基地をたたくだけの第一撃能力体系を持ちうるとは思われない」「いたず
らな感情論や観念論に基づく論議は、決して国民の願望する本当の安全保障をもたらすも
のではない」と、今回のケースとは違い、日本への脅威論をあおったり、制裁を主張する
ことなく、理性的な反応を見せています。


日本上空を飛び越えなかったから? でも、この時の中国はすでに核実験に成功しており、
日本全域が中国の核ミサイルの射程に入ったという意味では、その軍事的意味は朝鮮の衛
星どころではありません。当時中国は、日本と国交はなかったし(日本政府の言い分では
中国共産党が不法に支配」していたわけですね)、国連にも代表権はありませんでした。
もちろん発射の事前通告はありませんでした。各紙が強調する日本の安全保障の側面から
見れば、どちらが現実的脅威かは明白でしょう。


さらに最近の例でいえば、中国が台湾付近にミサイルを打ち込んだとき、沖縄の漁民は何
日間も出漁を見合わせなければならず、日本人の実生活には「テポドン」とは比べものに
ならないほどの影響がありました。にも関わらず、中華学校の生徒が襲われたとかいう話
は、まったくありません。


こうやってさまざまな角度から検討すると、やはり今回の日本の反応は、たとえそれが国
際ルールに反し、危険を伴うものであったとしても、尋常ではないことがお分かりになる
と思います。


大国へのおもねり、小国への蔑視、朝鮮支配の未清算、本土重視と沖縄差別…。「テポド
ン」騒ぎは、日本社会に蔓延する矛盾が絡み合って噴き出した日本人自身の問題でもある
ことを見つめなければ、何度でも形を変えて繰り返されることでしょう。


***


この投稿を書いていて再び思い起こされたのが、#5215でも紹介した森崎和江『二つのこと
ば・二つのこころ』の、次のような一節です。森崎は金嬉老事件によせて、「私は人質の
位置にいた」と前提した上で、こう書いています。


  # それは、日本人は誰でも、あるとき、ふいに個人的な理由なしに、朝鮮人によっ
   て人質とされて、なんのふしぎもないといいたいためだ。しばしばそうなるであろ
   うことを指摘しておきたいからだ。人質とは、朝鮮人の主体性にとりおさえられる
   状態である。けれどもまた、朝鮮人の主体性に対して、まともに対応する自由----
   つまり生命の危機感とひきかえに自己の朝鮮を掘り起こす自由----を確保する。
    日本人は犯罪の有無にかかわらず、人質として日本人が朝鮮人の主体性にとりお
   さえられることを、ふつごうだと考える。それは日本の大衆にとって、ごく自然な
   発想である。そしてまた日本の支配意識も、さようなことはふつごうだと考えるが、
   それはいささか不自然な反応である。その意識は反応の立脚点を心さわがしく探さ
   ねばならない。
    ではもし、中国人が日本人大衆を人質にしたらどうだろう。朝鮮と中国は、とも
   に日本国が侵略の対象とした相手である。が大衆の両者に対する感情にはかなりの
   差があるのだ。
    私は朝鮮語の本を時折電車のなかで開くことがある。……或るとき誰かが声をか
   けた。「なぜ朝鮮語の勉強をなさるのですか。どうせやるなら中国語がよくはあり
   ませんか」この反応は大衆の気持ちをよくあらわしている。もしこれら大衆が中国
   人の手で人質になったなら、やはり不都合なことだと大衆一般は反応するだろうか。


金嬉老の孤独な戦いから、30年の歳月が流れました。金嬉老はいまも無期懲役囚として
獄中にあり、オモニは11月4日、息子の出獄を待つことなく、亡くなりました。


金嬉老事件と朝鮮の衛星打ち上げは、もちろん全然関係のない、別々の出来事です。しか
し、30年の時を隔てたこれら二つの出来事に接したときに、日本人の心にわき起こった
感情が、全然別種のものだとも、私にはどうしても思えないのです。
朝鮮人の主体性に対して、まともに対応する自由」を、いまだに日本人は確保できてい
ないことが、再び露呈してしまったのではないか。それゆえに金嬉老はいまも日本の最長
期囚として獄にあらねばならないのではないか。
政治家とマスコミが騒げば騒ぐほど、そんな苦い思いがこみ上げてくるのです。



(注)金嬉老氏は1999年9月7日、一度も見たことのない“祖国”、韓国に「帰国」
   することを条件に、仮釈放された。事件から31年目のことだ。