世界はヒロシマを覚えているか(5)「被爆者の証言がなければ、原爆ドームはただのハリボテに過ぎない。」


記事番号:4730 (1998年08月25日 09時22分59秒)


Kさん。       

#4698
はじめまして、Kといいます。
少々乱暴なのを承知でまず感想から申し上げさせていただくなら”自虐ってるな”という感じです。


「自虐」という一語で、具体的に表現したいものは何でしょうか。


まず、冒頭の栗原貞子氏の詩についてですが、なぜ貴方とB氏が南京事件と原爆投下についての事実関係について争っているときに聞いたこともないような女性の個人的な感情を表わした詩などがでてくるのかさっぱりわかりません。


栗原貞子氏は1913年広島生まれ。45年に広島で被爆しました。


米占領軍は、ヒロシマの悲惨を隠蔽するため、原爆に関する表現を弾圧し、原爆は戦争被害を最小限にとどめ平和をもたらした、という認識を広めようとしました。栗原氏は占領軍の検閲に抗して、いち早く46年3月に「中国文化」原子爆弾特集号を編集・発行しました。そこに掲載された彼女の詩が、原爆文学の記念碑的作品である「生ましめんかな」です。(/は引用者)


こわれたビルディングの地下室の夜だった。/原子爆弾の負傷者たちは/ローソク一本ない暗い地下室を/うずめて、いっぱいだった。/生まぐさい血の匂い、死臭。/汗くさい人いきれ、うめきごえ/その中から不思議な声がきこえて来た。/「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。/この地獄の底のような地下室で/今、若い女が産気づいているのだ。/マッチ一本ないくらがりで/どうしたらいいのだろう/人々は自分の痛みを忘れて気づかった。/と、「私が産婆です、私が生ませましょう」/と言ったのは/さっきまでうめいていた重傷者だ。/かくてくらがりの地獄の底で/新しい生命は生まれた。/かくてあかつきを待たず産婆は/血まみれのまま死んだ。/生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも

69年には栗原氏ら四人の詩人の手によってアンソロジーヒロシマ』が刊行されました。原爆の悲惨と平和の創造を象徴するカタカナの「ヒロシマ」は、この時に初めて使われました。栗原氏の存在なくしては、広島の被爆体験の継承と反核反戦の声は、ずっと貧弱なものになっていたに違いありません。(以上の記述は『反核天皇被爆者』栗原貞子三一書房、1975、『日本の原爆文学』13「詩歌」ほるぷ出版、1983、によりました)


(Kさん)
広島といえば南京がでてくるというのは一部の人がそう信じているだけで、あまり普遍性はない。


現在私はシカゴに住んでます。よく自己紹介をするときに日本の広島からきましたっていうけど今までその反応として南京を持ち出す奴(中国人を含めて)なんて一人もいませんでしたよ。


パールハーバーは二、三度あったかな。


人間が一生の間に直接見聞きできることは、たかが知れています。ご自分の体験を絶対化することはおやめになったほうがよいでしょう。


栗原貞子氏は、著書『核・天皇被爆者』のなかで、次のようなエピソードを紹介しています。


数年前、キリスト教婦人団体がアメリカで世界婦人会議を行い、会を終えた後、ソルスベリーの町で懇親会をひらいたところ、「これからアメリカの英雄を紹介する」とのあいさつがあった後、爆弾を抱えた格好の兵士が現われ、「彼は広島に原爆を投下したアメリカの英雄です」と説明された。


日本代表のY夫人は突然のことで黙ってうつむいているより仕方がなかったという。するとアメリカの婦人が「彼を英雄とするのは間違っています。私はアメリカ国民として広島長崎の人たちにゆるしを乞いたいと思います」といったところ、中国や韓国を始め東南アジアの国ぐにの婦人たちは「アメリカの原爆は私たちを日本の軍国主義の侵略から解放してくれました。日本人は自国の軍国主義の非道を反省するべきです。何がヒロシマですか」といったので、Y夫人はいたたまれない思いをしたと語った。

また、丸木位里・俊の描いた大作「南京大虐殺の図」には、次のような説明が付されています。


1970年に原爆の図を持ってアメリカに渡りました。ロサンゼルスの近くのカリフォルニア州立工科大学に行ったときのことです。


「例えば中国人の画家が、日本が行った南京大虐殺という絵を描いて日本へ持って行ったら、あなたはどうなさいます。それと同じことです。アメリカが行った、ひろしま、ながさきの大量虐殺の絵を日本人画家が描いてアメリカへ持ってきています。わたしたちがその展覧会をしています。」と、ある大学教授はいいました。


ちょうどその頃はベトナム爆撃が盛んに行われていました。ソンミの虐殺もその頃でした。戦争反対の原爆の図をアメリカで展覧することは大変なことでありました。


わたしたちはアメリカで南京大虐殺のことを聞こうとは夢にも思いませんでした。

帰国後、丸木夫妻は南京大虐殺の資料をあつめはじめ、75年に作品を完成させました。ところが作品を発表すると、さまざまな嫌がらせや脅迫の手紙・電話が来るようになったそうです。


スミソニアンの原爆展も、当初の計画では、南京大虐殺の展示も予定されていたそうですし、三年前に韓国で開かれた原爆展も、市民の反応は冷たいものだったようです。


このような反応は、アメリカや中国の「プロパガンダ」などという薄っぺらいものに根拠するものではありません。日本ではどうあれ、<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>という反応は、世界的な「常識」なのです。

(Kさん)
なぜ、広島、長崎への原爆投下と南京事件が比較できるんですか? どちらも非戦闘員に対する大量殺りくという点で同じだというならば東京大阪などの大都市への焼夷弾爆撃もそのカテゴリーに入りますよ。貴方がそうやって南京事件と原爆投下を直接結び付けようとする態度こそ終戦直後のアメリカそして、現在の中国のプロパガンダの意図するところだと思います。


原爆は、ある日突然落ちてきたのではありません。


日本はそれまで15年にわたって侵略戦争を続け、アジアの民を虐殺してきたのです。


アジア各地を歩いていると、日本軍による戦争被害の話をたくさん聞きます。そしてアジアの民を解放したのはアメリカの原爆であるという「神話」が広く信じられていることを感じます。彼らにとって、南京は日本の軍国主義の象徴であり、ヒロシマはそこからの解放の象徴です。


もちろん原爆投下の主要目的は、「アジアを解放する」ことではなく、戦後をにらんだアメリカの世界戦略の一環だったわけであり、この「神話」は完全に誤りです。私は、アメリカが参戦しなくても、アジアは自力で日本を打ち負かし、解放を勝ち取ったであろうと考えています。


しかし、原爆の神話が史実に基づいて誤りであっても、被害者側から見れば、それなりの説得力を持ってしまうのは、彼らの実体験がそれを支えているからです。


また、日本の一般市民を大量虐殺したという事実にも関わらず、アメリカ国民の多くがあの戦争を安心して「良い戦争」と呼ぶことができるのも、南京に象徴される日本軍の破壊と殺戮が道徳的根拠を与えてしまっているからです。


東京大空襲も、当然、アメリカによる一般市民の虐殺です。それはそれで糾弾されなければなりません。しかし、それと同時に日本軍の重慶爆撃も糾弾しなければ、その声はなんら道徳的な力を持つことはないでしょう。


日本政府が重慶爆撃に対して何の責任も取らないでいることと、東京大空襲の責任者カーチス・ルメイに勲章を与えたことは、表裏一体の行為です。


自分たちの過ちを覆い隠そうとするから、他人の過ちを追及することができなくなっているのです。


日本が無謀で残虐な侵略行為によってアジアの民を虐殺したことの重大性を認めるとき、原爆の神話は崩れ去るでしょう。その時アメリカは、原爆投下の道徳的根拠を失い、広島・長崎市民の大量虐殺に対する責任をとらざるをえなくなるでしょう。


(Kさん)
まあ仮に原爆投下と南京事件が比較可能だとしましょう。


あなたは原爆について、写真や証言についてしか取り上げていませんが、現存する物理的証拠については、言及されてません。あの原爆ドームは捏造されたものでしょうか。原爆資料館にある石に焼けた人の影は核分裂による爆発の閃光以外の現象でも起こりうることなのでしょうか?


また、アメリカは戦意高揚のためだけに当時のお金で二十一億ドルもの予算を費やして嘘をいったのでしょうか。私は広島県出身で大学を卒業するまでは毎年八月六日八時十五分には黙祷を捧げていた人間です。しかし、それでも私は、貴方やヒステリーシナ系米国人女性と違ってこれだけ悲惨な目にあった被害者の証言を信用できないのかといったゴリ押しはしません。


あなたが原爆についての物理的証拠について否定的もしくは懐疑的になるのは結構ですが、その主張を裏付けるだけの反証を提示してからいってください。少なくとも南京大虐殺否定派は、その作業を怠っていません。


まず、あの原爆ドームがハリボテだということを証明するところから始められたらいかがでしょう。


何度も説明していますが、私はヒロシマ原爆を確信しています。南京大虐殺が幻だと強弁するのは、ヒロシマが幻だというのと同じレベルの、荒唐無稽な主張だということを言いたいのです。


しかし、私のヒロシマへの確信は、「物理的証拠」に根拠するものではありません。


原爆ドームは、単なる「物理的証拠」ではありません。戦争を憎む人々の意志、原爆の悲惨を伝えようとする人々の声(=証言)の集積なのです。


ドームは幾たびも取り壊しの危機に瀕してきました。特に右翼や元戦犯たちが取り壊しを主張してきました。日本政府はドームの保存に無関心でしたし、広島市の財政では、とうてい保存費用の捻出は不可能でした。ドームがいまもあるのは、多くの人がドーム保存に立ち上がり、金を出し合い、補修工事を行った結果です。


「原爆は威力として知られたか、人間悲惨として知られたか。人間悲惨としては知られず、威力として知られて核兵器の増産が行われている」


1964年の原水禁国民会議で、中国新聞論説委員・金井利博氏はこう述べました。


原爆の本質は、その物理的エネルギーにあるのではありません。無差別に人を焼き尽くし、生活を奪い、生き残った者にも辛苦の生を与える、悲惨の極みこそが、原爆なのです。


原爆ドームが「物理的証拠」に堕落するとき、それは核の物理的威力を伝えるだけのハリボテに過ぎなくなることでしょう。


私は#4582で、南京大虐殺を疑ったり、元慰安婦の強制性を疑う人々をまねて、「証言もたくさんありますが、偽証罪の適用されない状況での証言がどれだけ信用できるのか、もっと検証が必要です。」と書きました


しかしよくよく考えれば、いかなる公文書や物理的証拠も、人間の悲惨を自ら語ることはありません。それらの「証拠」をいかにたくさん集めようが、そこには人々が何を感じ、何を思ったかは、書かれていません。それらの「証拠」が意味を持ちうるのは、その背後に証言者の姿があるからです。


ヒロシマで何があったか、南京で何があったか、人間が何をして、何を感じ、何を考えたかを伝えるのは、人間だけなのですから。


私がヒロシマの悲惨の真実性を確信する根拠は、したがって、原爆ドームという物理的証拠にあるのではなく、例えば次のような被爆者・目撃者の証言にこそあるのです。


ピカッと、爆弾が破裂したときに、だいだい色の光線をじかにあびた赤ちゃんは、おかあさんのうでに、だかれて死んでいました。それに気がつかないで、赤ちゃんをだいて、何時間も火の中を逃げてきた、おかあさんもいました。


「やれのう、なんべん思いだしても、かわいそうにのう。勤労奉仕にひっぱりだされた女の子が、目玉がとびだして、だらりとさがり、目がみえんようになって、橋のたもとのがんぎのところで、かさなりあって死んでおった。……」


正田篠枝作「ちゃんちゃこばあちゃん」より)


だとすれば、次のような証言はどのような意味を持つのでしょうか。

地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両目が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。7歳くらいの男の子のもあった。銃剣の傷が4つ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。


痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから2日後に死んだという。


ジョン・ラーベ著『南京の真実講談社、より)

この二つの証言を分け隔てるものは、何でしょうか。


勤労奉仕に引っぱり出されて、原爆に殺された広島の女の子と、日本兵の銃剣で突き殺された南京の7歳の男の子の、二つの悲惨を並べて、上は信用できるが、下は信用できない、とする根拠を、私は持ち合わせていません。


ところで、「ヒステリー」というのは、女性に対する最大限の侮蔑の言葉です。
また、「シナ」というのは、日中戦争を「わからずやの後進国をこらしめるための戦争」として正当化するために広められた政治的な差別語です。


この二つの言葉を同時に使っているあなたは、中国で女性をレイプし、良民を虐殺した日本兵と同じメンタリティーをそのまま受け継いでいることが、よく分かります。そして、それら被害者の訴えを、事実関係も知らずに「ヒステリー」として切り捨てていることも。


(Kさん)
#4699
これは付け足しですが八月六日が広島の原爆記念日だということを日本人なら誰でも知っているというのは、間違いです。


この間日本人女性三人と酒を飲みにいきまして、そのうちの一人の女性が八月五日が誕生日だということがわかると、別のある女性が”それって、終戦記念日かなんかじゃない”といってました。ちなみに彼女は某有名大学で修士号をとってます。


批判するときは、人の文章をよく読んでからにして下さい。
8月6日が何の日か知らない日本人がいる、ということは幾度かニュースにもなり、私もその事実を知っています。私は、「日本人なら誰でも知っている」などというナイーブな表現はしていません。


確かに、ヒロシマの風化が年々進んでいることは、深刻な問題です。


広島出身で毎年8月6日に黙とうを欠かさなかったというあなたが、栗原貞子氏の名を知らないということは、「平和教育」の無力さの象徴でしょうか。あるいはヒロシマの風化がさらに進んでいることのあらわれでしょうか。



バックナンバー
世界はヒロシマを覚えているか(1)「ヒロシマ原爆も捏造だった?」
世界はヒロシマを覚えているか(2)「ますますあやしい? ヒロシマ原爆。」
世界はヒロシマを覚えているか(3)「8月6日と12月13日。」
世界はヒロシマを覚えているか(4)「ヒロシマの根拠、南京の根拠。」